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やっぱりひきこもって生きたい

やっぱりひきこもって生きたい

やっぱりひきこもって生きたい

 

熊本地震について先日書いたコラムで、私は「他人を当てにしない」とのべました。

やっぱり、そのことについて他人の助力を当てにすることは悪いことではないのではないかというような意見をいただいきました。

 

もちろんそのとおりで、被災地で家を失った上に避難所すら入れない状況は社会が支援しなければいけません。

 

「他人を当てにしない」といういいかたは別の表現で言えば、被災者だろうが社会的弱者だろうが避難所に求められる社会的ルールが守れないような発達障害者はこのコミュニテイに入ることを認めない、野たれて死ねと言わんばかりの、この社会の有り様に絶句したというとです。

 

社会の側から言えば、みんな大変なんだ、甘えんな、ということなのでしょう。

 

(表面的には障害者や社会的弱者の支援が大事だという言説が横行しながら、災害や金欠状況では、みんな大変なんだから、足手まといだ、お前ら消えろ、ということになる。

相模原の事件はそのような社会の潜在的差別感情が露骨に表面化した問題のような気がする)

 

「甘える」ことと「支援を求める」ことは違います。

 

「コミュニケーション能力が乏しい」人は、人に頼ることを極端に嫌います。
発達障害が明確な人から、人間関係が不器用なのだが社会生活はなんとか頑張っているという人まで含めて、人に頼ることは極端に苦手だという思いは共通していると思います。

それは、甘えていると思われることへの不安でもあり、恐怖でもあります。そのせいで必要な人間関係や、支援を受けることを拒んでしまうこともあります。

 

それがわからない人間には、表面は親しげなのに妙によそよそしい、いつまでたっても関係が深まらないような印象を与えてしまいます。何を考えているのかわからないと評されることもあります。

 

そのように人を避けて、こもりがちになっている人にコミュ力を高める努力をしろ、対人恐怖症を治せ、障害ならそれを修理して戻ってこい、という人たちがいますが、事態がさっぱりわかっていないようです。

 

人と交わることは、自分に負担になると同時に相手にも負担を強いることになります。相手に借りを作るのが「人間関係」というものの本質です。

 

借りを作れば、当然いつかは借りを返せ(我々の納得できるような社会的責任を果たせ)と言われることになります。

 

でも、どうしたらそれが十分な借りの返済(社会のメンバーとして当たり前のコミュニケーションを行った)とみなされるのでしょう?

 

誰がそれを十分であると判定するのでしょうか?

 

毎日毎日、そんな不安を背負って、どうやって生きていけばいいのでしょうか。

 

私には「普通に」人付き合いをしている人たち、出会って間もなく「友人同士」というものになってしまっている人たちが全く理解できません。

 

「友人」というのはどう定義すればいいのでしょうか。

どこまでが借りになってしまうのか全くわからない、境界線不明の人間関係です。

 

顔見知り、仕事仲間。彼らとならば、一定時間の付き合いで、その日の夜には解放されて自分一人の安心できる空間に戻れます。

 

しかし、「友人」とは?

いつ連絡をしてくるのかわからない人々。どこまで踏み込んでくるのか全く不明の人々。

 

一度関係を作るとどこまで相手の言うことを聞いて、どこまで自分を主張すればいいのかわからない人々。


借りはどのくらいになるのだろう?
どのくらいの見返りを要求されるのだろう?
 

考えただけで混乱します。

おそろしく面倒極まりない。

 

以下はちょっとした笑い話でです。

 

◯SKという製薬会社から講演会の講師として招かれたことがあった。

終了後、会食の後、ぜひ先生の知っている店で飲みたいと頼まれた。

(こっちもあまり詳しくはないが)近くの飲み屋に一緒に行った。

喫煙可の店なので店の中は煙もうもうである。

トイレに立った時に一緒に来た営業マンの陰口が聞こえた。

「こんなところで肺癌になりたくないもんな・・・」

 

このエピソードで腹が立ったというわけでは特にありません。

営業なんて、結局ものを売るのが目的なのでありますから、腹の中で舌を出そうが、ケツを出そうが別になんとも思いません。つねづね人とはそんなものだと思っているので。

 

しかし、まあこちらとしては

「接待を受けてちやほやされて、いいご機嫌で馴染みの店に営業マンを紹介する開業医」の役割を、いささかうんざりしながら引き受けていたわけです。

面倒にも自分の時間を削って。特に飲みに行きたい相手でもないにも関わらず。

 

ではなぜ、断らなかったのか?

 

もちろん空気を読んだからですよ。

 

それが、自分にその時点で要請されている役割。

小学校にも中学校にも高校にも、その後の社会生活すべてにつきまとう役割要請(同調圧力?)がここでも働き、うかつにもそれを引き受けた自分にそれなりのむくいがかえってきたというわけですね。


空気を読みすぎて、演ずる役割を「商売上の付き合い」から「友人仲間(?)」と誤ってしまい、
後になって、手酷く苦い思いをさせられるというわけです。

あとになって襲ってくる自己嫌悪感のいやらしさ。

つまり、リップサービスをしたにすぎないこの営業の男にしてみれば、それをマジで受け取った私からタバコの紫煙もうもうの飲み屋に連れて行かれるという負担を背負わされたわけです。

もちろん責任はすべて私にあります。

そして、私は後ほど、この男からの陰口により手痛い自己嫌悪の感情を喚起され、それに耐えなければならないという見返りを受け取ったわけです。

空気がうまく読めなかったコミュ障のアホにはそれなりの見返りが待っているということです。


理解できますか?この感覚。


この世界は社会を舞台にしたお芝居にすぎません。

 

いかに適切に自分の役割を演じられるかが、社会の中では貴重とされるのです。

 

私のような人間は、その役割を演じるのに必死です。

 

「熱い友情」とか「無償の愛」とか「会社への帰属意識」とか健常な人々には理解可能であるにも関わらず、私にとって不可解な言語に囲まれた世界では、役割を演じつつ生き残るのは並大抵ではありません。

 

消費するエネルギーは莫大です。

 

にこやかに笑いながら家にたどり着くと、表情も消え失せてぐったりと椅子に座り込みます。夜は何もする気力も湧いてこないこともしばしばです。

 

(これは、仕事上の面接とは関係ありません。精神科の仕事の上での医師患者関係は構造化されていますから。構造化に関しては別の機会に詳しく話したいと思います)

 

誤解されたくはありませんが、私はごく自然体でこの世の中を生きている人たちを上から目線で批判したいわけではありません。

 

「コミュ障」と言われる私の家族、そしておそらく多くのストレス疾患や、精神疾患を患っている人々。発達障害者の視点からこの社会の中で感じているであろうことを素直に述べてみただけです。

 

「甘え」なんてとんでもない。日々、他人に負担をかけないように細心の注意を払い続けるだけで精一杯なのに。

 

保健室に駆け込んで教室に上がれない生徒も、朝、身体が動かなくなって会社に出ることができなくなった会社員も、被災地でパニックを起こす発達障害の子供や成人も、みんな普段は甘えているわけではありません。

だれかに負担をかけないように、迷惑をかけないように必死にアンテナを張り巡らせて生きています。
ひとたびバランスを崩せば、その負債は莫大なものとなって帰ってくるかもしれないわけですから。


それでも自分でどうしようもなくなった時、そのときこそ支援が必要になるのです。 

 





 

2016-08-07 07:24:59

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